くさたみの愚考


by sinkougeirai

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乱筆乱文

愚生は自他共に認める「筆不精」である。もちろん威張れる事ではないのだが・・・
その原因は乱筆乱文にある。幾ら丁寧に書いたつもりでも、仕上がつた自分の字を見ると
ため息が長く出る位下手である。その上、己の心を反映してか文章も曲がりくねつてゐる。
つまり乱筆だ。
また言語が貧困(ボキャ貧)な故に上手い言葉がなかなか浮かばない。
つまり乱文だ。

そこで手紙や葉書を書く時は、辞書やネットで出来るだけ適切な言葉を調べてから、鉛筆で薄く線を引き、文章がなるべく真つ直ぐになるやうに
する。その次に線に沿つて鉛筆で薄く下書きをする。その次に万年筆などで下書きをなぞつて書く。
インクが乾いた頃に、鉛筆で引いた線や文字を消しゴムで消す。以上で完成!

所用時間は早くて葉書で三十分以上、手紙など数枚に及ぶものは一時間を優に上回る。

話は逸れるが、尊兄から頂いた古書などを読んでゐると良い文言が多数ある。貴重な古書であるのでその文言に赤鉛筆で線を引く訳にもいかず、頁に付箋を付ける事にしてゐる。
吉田松陰先生は「本に書いてある大事な個所は必ず抜き書きせよ」と門下生に教へたとか、、、筆無精な性分なのでそれはなかなか実践出来ない。
そんな体たらくだから一向に乱筆乱文筆無精が直らないのか?と自問自答するこの頃である。

※絵葉書の場合
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※鉛筆で薄く線を引く
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※線に沿つて下書きをする
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※その上からペンを入れて、インクが乾いたら下書きを鉛筆で消し完成
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by sinkougeirai | 2012-10-30 07:58

下戸【再掲載】

※使ひ慣れないスマホでイヂツテゐたら、間違へて記事を消してしまいました。ここに再掲載致しますが、コメントを入れて下さつた方、洵に申し訳ありませんでした。

愚生は下戸である。要するに酒が飲めない。
ある大先輩に「おまえは酒も飲めないつまらない野郎だ。」または「おまえは酒を飲めない事により可哀想な人生を送つてゐる」
と何十年に渡つて言はれた続けた事であらうか・・・

下戸を知つてゐる旧知の御仁は愚生に酒を勧める事はないが、仕事などでの打ち上げで、初対面の御仁からは「ささ、まづ一献!」と瓶ビールを傾けてくる。
その度に「私は酒を飲まないのです」と言はねばならない。それで終はれば良いのだが、「どこか具合が悪いのですか?医者に止められて
ゐるのですか?」と質問攻めに遭ふ。
「いや、元々下戸なんです」と答へると、ある大先輩のやうに「可哀想な奴だ」と言はんばかりの目付きをされる。

ただ、様々の会などで酒を酌み交はし、陽気に振る舞つてゐる姿を見ると、愚生も酒が呑めたらな・・・と思ふ事しばしば。

しかしよく考へると、愚生の周りには結構な数の下戸がゐる。

そこでネツトで調べてみると、なんと日本人の四十四%が酒が弱いといふ結果が出てゐるではないか!
しかも世界一位!

嗚呼、これでもう下戸である事に後ろめたさを感じたり、責められる理由はなくなつたのである!
http://www.kirin.co.jp/csr/arp/fundamental/japanese.html
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by sinkougeirai | 2012-10-25 16:47

正統仮名遣ひ

前回レトルトカレーの商品説明に正字正統仮名遣ひが使はれてゐた事を書いたが、奇しくも翌日「國語の正統を守る民族派有志の會」の懇談会があり、出席した。

今まで三回行はれたが、民族派有志と言つても参加者は神主、議員、教師、政党、元官僚、学生、大和撫子など多岐に渡る。

GHQの国語改革による現代仮名遣ひ(表音記)は、日本人の築きあげた文化を破壊する占領政策であり、参加者からは現代仮名遣ひを「占領仮名遣ひ」と呼んでゐた。

確かに「占領憲法改正」や「占領された領土を奪還せよ」と声高々に叫び続けてきた訳だが、「占領された国語を奪還せよ」と声を上げた記憶はない。

冷静に考へれば戦後体制打倒を叫び、憲法や領土は駄目だが国語は良し、なる言ひは矛盾してゐる。

愚生も数年前から送り仮名だけは正当表記(何度も言ふが間違ひだらけ)を使つてゐるが、受けた教育は勿論現代仮名遣ひであつた。

ネツトで調べた所、当時の日本の新聞でもGHQに迎合し、国語の破壊を推奨する社説が多かつたやうだ。
以下例
※昭和二十年十一月十二日の読売新聞は、社説で「漢字廃止論」を書いてゐる。レーニンを引用し、「トルコの父」ケマル・パシャの例を挙げて、漢字廃止は民主主義運動の一翼だと主張してゐる。
※昭和二十一年四月十六日の毎日新聞は、「国語の改革」といふ社説で、伝統に執着してゐては文化国家の進歩も向上もないとして、ローマ字化への道を唱へている。
※昭和二十一年四月九日の日経は、社説「教育使節団の報告を見る」で、漢字学習の負担軽減とローマ字化は別問題、と戒めた。
なほ有名作家の志賀直哉は雑誌・改造に「国語問題」を発表し、その中で「日本語を廃止して、世界中で一番美しい言語であるフランス語を採用せよ」と提案した。

以上ネツトから引用

敗戦と同時に手のひらを返したのは、朝日新聞だけではないやうだ。また国民に先駆けて正しい国語を使はなければならぬ作家の「フランス語を国語にせよ」の言ひは驚愕であつた。
それに比べれば「現代仮名遣ひ」はまだまし、と言ふ御仁もあらうが、戦後体制打倒を叫ぶものはそれに甘んじてはならぬと思うた。

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結論:偉さうな事を書いたが、愚生まだまだ勉強が足りない・・・上記で間違ひあらば是非御指摘下さい。
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by sinkougeirai | 2012-10-21 15:35

カリー

過日、還暦を祝ふ会に出席した際、酔ひの回つたとある先輩から「貴様のブログは最近真面目ぶつてゐる」と苦言を呈された。

そこで今回は軽い話題。
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画像はそこらのスーパーで売つてゐる何の変哲もないレトルトのカレー。

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しかし裏側をみると正仮名、正漢字(振り仮名も正統)で商品を宣伝してゐるではないか!
恥づかしながら、間違ひだらけの正仮名を臆面もなく使つてゐる愚生としては、味本位より興味本位で買つてみた。

以下原文
御常聯(ごじやうれん)さんにこそ、昨日(きのふ)より今日(けふ)、今日(けふ)より明日(あした)の美味(びみ)を。斯(か)う考(かんが)へて初心(しよしん)に返(かへ)り、終(つひ)に極(きは)めたブイヨンは二段仕込(だんじこみ)み。此(こ)れでカリーを作(つく)りました。上得意(じやうとくい)の佐々木(ささき)さん、「亭主(ていしゆ)、今日(けふ)また何時(いつ)もより後味(ああぢ)がすつきり美味(びみ)だ。何(なに)か變(か)へたか?」と、流石(さすが)の御感想(ごかんさう)。司厨士(コツク)冥利(みやうり)に盡(つ)きるとは此(こ)の事(こと)です。

近年、懐古主義が流行つてゐるのか「三丁目夕日」が大入りだつたり、東京駅は復元されたり、旧い車や昭和風の店を街でよく見掛けるやうになつた。
愚生の正仮名(間違ひだらけだが)は「戦後体制打倒」と言ひながら、占領軍の日本文化破壊である「国語改革」の現代仮名を使ふのは可笑しい、と言ふ同志の尤もたる意見に同意し使ひ始めた。決して懐古主義で使つてゐる訳ではない。
購入したカレーも、懐古主義の流行に乗つて書かれたのではないか、と推察するが、流行は直に廃るものだ。正しい文化が復活するのであれば流行で終はつてほしくない。

正仮名・正漢字に興味ある仁は、その若き第一人者である一艸獨語主人のブログを訪ねてみると本格的な正仮名・正漢字を見る事が出来る。是非一度来訪してみる価値あり。


結論:カリーの味は普通であつた。
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by sinkougeirai | 2012-10-17 20:22

弘道館記述義の精神と釈義 その二

前回少し真面目なブログを書いてみたが、今回も調子に乗つて真面目なブログを・・・

前回は尊兄から頂いた「弘道館記述義」の尊皇精神を幾例か挙げて愚考を呈してみたが、今回はその敬神精神に少し触れてみたい。

記述義を記した藤田東湖先生はその上巻で仏教についてかう述べてゐる。

「愚冥の民は、信じて之を奉じ、智巧の士は、利してこれを使ひ、純明剛毅の人はにくんで之を排し、姦詐狡猾の賊はとりて之を用ふ。・・・嗚呼天下の広き、愚冥の民は十に七、八居り智巧の士はまたその一、二居れば、すなわちその仏を奉ずる者滔々として日にまし、純明剛毅の人に至りては、十、一を千、百に存するのみ」

と仏教を奉ずる者の多さに嘆いてゐる。

また、水戸藩内には、神道を低い位置付けする神仏習合が多くある実態に厳しい批判をしてゐる。
その下巻にかう述べてゐる。

「神を敬ひ祭りを重んじるは、斯道は最も大いなるものなるに、浮屠(僧侶)本地垂迹の説を設け、天下の神祗をあげてこれを胡鬼の末流に隷し、所在の神宮に伽藍(寺)を創立し、神仏並べ祀り、祠官と僧徒とのきをならべ雑処す、はなはだしくは即ち、陽には神、陰には仏、ただ僧のみこれを司る。すなはち朝廷の典礼に到りても、往々にして浮屠の法を用ひ、遂に喪祭の大事をあげて、一切これを坊主にゆだね、これ「浮屠これを奪ふ」なり。

と痛烈に神仏習合の邪を説いてゐる。

その後、藩は神仏習合を改めるべく神宮、神社から僧を追いだし仏教色を徹底的に排除するなど、政策を実行に移した。幕府直轄の寛永寺や増上寺などからの強い抵抗もあつたやうだが、例外を認めないのは流石 敬神尊皇の雄藩である。

しかし水戸藩は儒教を重んじてゐるではないか、との意見もあろうが記述義の第十四段「神州之道」第十八段「敬神崇儒」では、

「飽くまで惟神の道を服膺し、敬神は惟神道の主要項である。敬神の忽にしてならぬは論ずる迄もない。儒教は道を培養するもので(中略)儒に片寄り儒に黨(理非を論ぜず組みすること)する事があつてはならぬ。」

と、儒教はあくまでも「参考書」程度であると説く。


総じると弘道館記述義では、神国に於いて仏を敬うなぞ不敬も甚だしく、また敬神と尊皇は同一でなければならず、どちらか一方を重んづるは邪であると言ひ切る。
前回、水戸学は義公(光圀公)より起り、その目的は皇道を闡明するにあり、烈公(斉昭公)までの間、脈々と受け継がれた事は記したが、思へば、大政奉還を二条城にて宣言した徳川慶喜は、紛れもなく烈公の七男であり、水戸(学)が徳川の世を終はらせ中興せしめたのだと、愚生は考へるのであつた。
(維新の功罪についての論は多々あるだらうが、あくまでも愚生の勝手論である・・・)

因みに同じ水戸藩の会沢安(正志斎)先生の仏教批判は、東湖先生より激烈であつたらしい。その事は機会あらば改めて調べてみたい。


結論:脳ミソのシワを一本増やすのは結構難儀な事である。

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by sinkougeirai | 2012-10-13 17:16

弘道館記述義の精神と釈義

数少ない読者から「最近のブログは自虐的だ」といふ苦言を呈され、今回は少し真面目なブログを書いてみたい。

過日、某尊兄と水戸藩の敬神尊皇の精神を話をしてゐたところ、早速
「弘道館記述義の精神と釈義」(旺文社・岡村利平著 昭和十八年発行)
を送つて頂いた。

弘道館記述義は天保十二年(西暦一八四一年)、斉昭公が開設した藩校である弘道館開校の趣意を藤田東湖先生が著したものだ。「明治維新は水戸学なければ起つてゐない」とは誰でも知るところだが、愚生は水戸学を豆知識程度しか有してをらず、熟読した訳ではないが、本書を通じて水戸藩の激烈なる敬神尊皇精神を知るところとなつた。

ちなみに弘道館記述義の原文は漢文で書かれてをり、愚生の様な凡人には難解極りない。よつて通釈なければ一行たりとも理解出来ぬであらう。

記述された天保の時代と言へば、一揆が全国に及んだ「天保騒動」や「大塩平八郎の乱」価値のない貨幣「天保通宝発行」アメリカの商船を砲撃した「モリソン号事件」幕府の財政再興を目指した「天保の改革」など波乱多き時代であつた。

話はそれたが、本書は上巻第一段「弘道者何」から始まる。
通釈は、道とは人があつて始めて弘まり、道が単独で人の間に弘まるのではない。道とは皇祖以来一貫した常経であつて、人が寸時も離脱することの出来ないものである、と説く。
上巻第十四段の「皇化陵夷」では、中世以降になると、異端邪説の民を欺き世を惑はす者が跋扈し、俗儒曲学輩は我を捨てて一切に彼に従ふというやうになつた。その結果、 天皇の徳化は衰退したのである。
その諸原因を探求し、之を救ふの途は古道の振起にある、と説く。
下巻二段の「尊王攘夷」では、尊王とは 皇室を尊ぶ。王の字は王侯の王ではなく、元来王の字は、造字の法からして、天に二日なく地に二王なしの王であるから、 天皇を申すに少しも差し支へはない、と説き、
攘夷とは、四海親善を旨とするも、まづ日本の進展を妨げる外国があるならば、断乎として撃払うべし、と説く。

この数例を見ても弘道館記述義の尊皇精神は他藩を圧倒してゐる。他藩にも学問所は存在したが、幕府の御用学の朱子学を教へて官吏を育成する事に終始した。それ故に幕府の儒官から「水戸は天朝びいき」と批評された。

水戸学は義公(光圀公)より起り、その目的は皇道を闡明するにあつた。それは烈公(斉昭公)までの間、脈々と受け継がれた。
記述義が書かれて二十七年後には明治の御世となる。愚生は本書を通じて水戸学が興れば幕府が衰退すると解釈した。現代に於いて、かうした学が興れば政府が衰退するのだ、とも・・・

冒頭に述べた「明治維新は水戸学なければ起つてゐない」の意味を愚生は少しは理解した。

水戸藩の「敬神の精神」は次回にでも書いてみたい。

かうした同志の心のこもつた贈り物により、小生の脳ミソにシワが一本増えた気がする。有難し。
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by sinkougeirai | 2012-10-08 21:57

老いる

愚生、眼鏡といふものに今まで縁がなかつた。

しかし齢五十を直前にして、とうとう老眼鏡を掛けねば字が見えなくなつた。

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少し前までは新聞など読む時に目から距離を離せば読めたのだが、
今や腕を最大限に伸ばしても読めなくなつた。

といふことで老眼鏡購入と相成つたのだ。

今や老眼鏡も百円均一店で買へるとあつて、色々なデザインを五本(計525円)買つてみた。

掛けてみればもう目を細める事もなく腕を伸ばす事もなく、若返つた気分でもある。

しかし冷静に考へると、愚生の意思に反して髪の毛は毎日毎日脱走を繰り返し、
残つた優秀な髪の毛も白く変化してゐる。ましてや老眼鏡の登場である。
また近年、駅では階段を登りきつた所でひどく呼吸が乱れる。体力も確実に落ちてゐる。

「気は若い」と自分に言ひ聞かせても確実に老いてゐるのだ。

少々自虐的なブログになつたが、そろそろ気も身体も「老い」を認めざるを得ない年齢なのか?
しかし愚生より十も二十も歳をめされてゐるのに気も体力も旺盛な御仁は幾らでもゐる。
といふことは愚生の老いが人より速いのか?これも神意と諦めるのか?

老眼鏡一つで、考へれば考へる程「憂鬱」になるこの頃である。
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by sinkougeirai | 2012-10-03 08:16